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遠藤 聖大(えんどう しょうた、1990年10月19日 - )は、石川県鳳至郡(現・鳳珠郡)穴水町中居出身で、追手風部屋所属の現役大相撲力士。本名同じ。身長183cm、体重147kg、血液型AB型〔中日新聞2013年9月14日朝刊おまけ星取表より。〕。得意手は左四つ、突き、押し。最高位は東前頭筆頭(2014年3月場所)。締め込みは、えんじ色のものと鮮やかな赤色のものの2本を持っている。 == 来歴 == === 相撲を始めてから高校卒業まで === 幼少期の遠藤はすぐに拗ねる子で父親もそんな遠藤に礼儀や忍耐を身につけさせる目的で相撲教室に参加させた。これが遠藤の相撲人生の始まりであった。当時の心境を遠藤は「初めは断ったけど3日連続で連れて行かれてあきらめた。嫌々始めたというのが本当のところです」と苦笑しながら振り返る。穴水町相撲連盟副会長の上野勝彦は当初の印象を「周囲の子に比べて背は大きかったが、泣いてばかり。相撲は途中でやめるのではと思っていた」と話し、遠藤は現に上野を恐れて稽古を逃げたこともある。だが上野は指摘された点をすぐに修正できる遠藤の「素直さ」に将来性を感じていた。とはいえ小学1年生の頃より強制されるような経緯で稽古を始めただけに、相撲中継が始まると部屋を離れるほど相撲を毛嫌いしていた。稽古を逃げた際には祖父の家に匿ってもらうことが多かったという。相撲が好きになったのは小学5年生の頃であり、2002年の金沢巡業で当時大関だった朝青龍に会って、スピードあふれる豪快な相撲にむき出しの闘争心、多彩な技に「面白い」と感じた。心をわしづかみされ「録画してまで見るようになった」という。ただ一言、「強い」とその横綱像を語っている〔遠藤大金星!休まず攻めて「ヤッター」 nikkansports.com 2014年5月15日9時33分 紙面から 〕〔全国学生相撲選手権:10日開幕…個人戦Vの行方は 毎日jp 2013年3月8日閲覧〕。そんな遠藤が転機を迎えたのは小学6年の時であり、珠洲市で開かれた大会で敗退して泣いている遠藤の姿を見た上野に「泣くなら明日から来なくていい」と大声で叱られて以降遠藤は厳しい稽古に真剣に向き合い、相撲の基礎を徹底的に吸収するようになる。全国レベルの大会でも結果を出し始め、人前で涙を見せることはなくなった〔遠藤 いざ秋場所 (上)朝青龍の一言で憧れ強く YOMIURI ONLINE 2013年9月13日〕。小学生の頃は相撲を習う傍らでバスケットボール部にも所属していたといい、本人が後年『スラムダンク』に影響されていたことや、家の前にあったゴールリングの前で毎日暗くなるまで練習していたことを話している。〔大空出版『相撲ファン』vol.3 30頁から32ページ〕 小学校卒業後、地元の穴水町を始めとして能登地方の中学・高校の多くで相撲部が休部状態に陥っているという事情から相撲を続けるために金沢市に転住〔『大相撲ジャーナル』2014年4月号19頁〕。 金沢市立西南部中学校2年次に行われた中部日本選抜中学生相撲大会では、中学・高校で1学年上の矢鋪光太郎(のちの栃乃里)を決勝で破り個人優勝。団体戦でも優勝を果たした。 金沢学院東高校相撲部時代は団体・個人共に活躍し、3年次に高校相撲金沢大会と選抜高校相撲十和田大会でそれぞれ優勝した。3年時のインターハイ個人戦1回戦では立合いで相手と呼吸が合わず計6度の「待った」を行い、立合いに計10分を所要したことで再三注意され、最後は「次に待ったをした方が負け」と異例の宣告を受けた〔史上初!遠藤、ざんばらで大関撃破「まさか勝てるとは」/春場所 〕。以降決して「待った」をしないよう心掛けるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠藤聖大」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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